サヨクが語る自虐史観

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わかりやすい安保法制「論点明確化
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サヨクが語る自虐史観
2015.8.31
ブロゴスさんに掲載されました。 http://blogos.com/article/131289/
前回、以下の記事を書いた者です。

わかりやすい安保法制「論点」の明確化 ~サヨクの本丸議論~
http://syboo.jp
ブロゴスさんにも掲載していただきました。
http://blogos.com/article/128237/


この記事で、私は自身をサヨクとしてその立場からの視点を紹介させていただきましたが、一部の方より「こいつはサヨクじゃないんじゃないか」という反応がありました。(なりすましか、といった声もありました)

私がサヨクを自称する理由はいくつかあります。その中の一つとして私は、一部保守の皆様の言うところの「自虐史観」を持っています。

それが私に芽生えたのは、一部保守の方の言う通り「戦後教育の洗脳」(あえてこう言います)がスタートだったということは当たっていると思います。しかし、いい年齢になった今でもそれが自分の考えの中に本当にあるならば、自分の言葉でそれを説明できるはずです。

ですから今回は、サヨクの自己紹介として、これを語らせていただきたいと思います。


なぜ日本だけが過去の戦争を責められる?
まず、「自虐史観」という言葉にも幅はありますので、ここでは「日本の近代戦争は侵略であり、間違いだったとして反省する」という意味だと考えて下さい。
※侵略史観という言葉の方が近いのでしょうか。

ちなみに私の祖父も戦争に行っており、あの当時の日本人の性根そのものが極悪非道であったかのような言説はもちろん認めることはできません。それでも私は、日本の近代戦争を否定する立場を取りたいのです。

しかし、この「日本の近代戦争は侵略だったのか」という重いテーマが、こんなところで決着できるわけもありませんので、恐縮ながら前回記事に続きここでも大雑把で乱暴な議論飛ばしをしたいと思います。

私が見たところ、保守寄りの皆さんの主張は、

あの頃は侵略が当たり前の時代であり、日本だけが侵略行為を責められるのはおかしい

というのがメインだと思うのですがいかがでしょうか?

「侵略」かどうかについては、日清戦争、日露戦争、満州事変辺りまでは、やはり日本の勢力拡大に見えますし、(軍部の暴走なんて対外的には言い訳になりませんし、各々のきっかけには混乱が色々あるとは言ってもその後支配していればそれは進出だと思います)その後の日中戦争(支那事変)は「自衛」で、太平洋戦争(大東亜戦争)は「追い込まれて止むに止まれず」という声もわかるのですが、それだってその前の急な勢力拡大から引き起こされた流れですから、あえて言えばこれも「侵略行為の続き」なんじゃないでしょうか?

で、重要なのはこれらが国際的にも定義の曖昧な「侵略」かどうかということよりも、その程度の「一連の侵略行為」は、あの頃どこの国でもやっていた、ということです。


まとめますと「自虐史観」「東京裁判史観」という言葉で戦後日本の歴史観を非難される方々の主張は、以下のようなものなのではないでしょうか?

「日本の近代戦争は侵略と言えば侵略なのかも知れないが、それは現代の常識に照らした判断に過ぎない。当時は弱肉強食が常識の時代であり、そうした欧米列強の帝国主義に対抗するため日本も勢力拡大を図った。それがなぜ今、日本の行為だけが非難されるのか。日本の罪だけを問い、多くの植民地を作っていた欧米列強の罪を問わない東京裁判は不公正だ!」

本当はもっと過激な方も多いのでしょうが、それにしても20年前に比べてこのような保守寄りの主張は相当に市民権を得て来ているように思います。そして私自身も、この主張には大いに頷けます。

しかし、です。それでも私は“不公正でも”日本の「侵略」を反省しても良いと考えているのです。それには、つい先日ふとしたことから浮かんだ私自身の「戦争観」を紹介しなければなりません。

※また上記の他にもう一点、保守の方々が強く主張される「大東亜戦争で日本は白人の植民地支配からアジアを解放させた」という指摘については、要素として考えなければいけないものですし、この先も勉強を続けたいと考えております。ただ、上記の「一連の侵略行為」の文脈においては、少なくとも当時の日本はアジア開放を「主目的」として南進したわけではないように思います。


戦争の意味
きっかけは「キングダム」(作:原泰久 集英社)という漫画でした。


「キングダム」は、秦始皇帝とその友人である主人公が活躍する戦国モノなのですが、これがまたもの凄い大迫力で面白いのです。一気に読み進めると、やがて秦王と主人公に大ピンチが訪れます。秦vs敵国の連合軍(合従軍)の大合戦の最中、敵の別働隊が主戦場を迂回し、秦の都に迫ります。秦側の兵士はすべて主戦場に駆り出されていますので、都を守る兵士はいません。このままでは秦の都が陥落し、秦が滅亡してしまう。この絶体絶命の事態に、秦王と主人公は都近くの城に残された老人・女・子供に檄を飛ばし、彼らの力で敵軍を向かい討つという沖縄戦も真っ青の作戦を採るのです。(当然バンバン死んで行きます)

私はここで「あれっ!?」と思ったのです。

沖縄上陸の終盤戦や、関東軍退却の顛末の話(双方とも、軍が民を守らなかったというような話です)を見聞きする度、堪え切れない程の憤りを覚える私ですが(例え真実がその1/10であったとして変わりません)、このキングダムの攻防戦には嫌悪を抱かないのです。それどころか、終始大興奮してその戦の行方を読み進めていました。(とにかくカッコいいんですよ、この場面の秦王)

これ、一体何なんでしょうか?

そう言えば、この疑問はずっと長く私自身にあったものです。昔から戦国時代モノや三国志モノなど、漫画・ゲーム・小説を好んで来た私(どれも浅いファンですが)ですが、サヨクとして「800万パーセント戦争はいけない!」と思いながらも、同時に戦・合戦のスペクタクルには魅せられて来ました。「戦」に「興奮」があるというのは当たり前かも知れませんが、なぜ昔の戦争はアリで、今の戦争はナシなのでしょうか?



以前は、何となく「昔と今では感覚が違うから」などという大雑把な結論付けをしていたのですが(その意味で幕末モノは変に現代と近くて気持ち悪かったのであんまり好きじゃなかったんですよね。関係ないですけど、大和天誅組なんて連合赤軍みたいじゃないですか)ここで一歩進んで、じゃあ何が違うんだろう、ということを少し考えてみたのです。

その時、ふと思ったんですよね。

もし昔の時代に『戦争』がなかったら、どうなっていたんだろう

って。

キングダムは紀元前250年とかそのくらいの時代なのですが、一つの想像として、もしもこんな大昔の人類になぜか超高度な倫理観が存在して「戦争はいかなる場合でもしてはいけない」となっていたらどうでしょう。

まだまだ圧倒的に低い食料生産力のこの時代、大飢饉の際にすら「争いを起こさず、少ない食料を皆で分け与えて…」などして全員共倒れになっていく村のようなことを世界規模で行っていたら、人類はどんどん衰退していったのではないでしょうか。

実際の歴史はその逆で、激しい奪い合いの連続で進んで行きます。「戦争」による激しい生存競争のモチベーションが、科学力その他すべての力を爆発的に発展させ、人類は進化して来たのではないかと思うのです。

逆に、人類がここまで高度な進化を求めるマインドを持っているからこそ、当然その「人より上を目指す」という本能によって争いが起こってしまう、という言い方もできるかも知れません。

そう言えば、「ドラえもん のび太と鉄人兵団」の中で、地球がロボット軍団に攻め込まれて危機を迎えた際、しずかちゃんがタイムマシンでそのロボット星の始祖ロボ誕生の場面に行き、彼らの「競争本能」を取り去ることで後に地球に攻めて来ないようにする、というシーンがありましたが、子供心に「そんなことしちゃダメだろ」と思っていたものです。競争本能が無くては、発展は望めません。

つまり、

人類の発展に「戦争」は不可欠だったのではないか

と考えたのです。
私のサヨク人生で、初の戦争肯定です。

今でも本心ではこんなことを言っていいのかと逡巡していますし、その時代時代で人生半ばで命を落とされた人々のことを欠片も想像すらできていないと思います。しかし、人類が戦争と共に発展し続けて来たとするのなら、良く耳にする「多くの過去の犠牲の上に今の我々がある」という言葉も、こういうことを指しているのかも知れません。

このように、「どうしても戦争が存在した or 戦争に一定の意義があった時代だったから」という点が、上記で疑問だった戦国物語の主人公達が「人を殺める」という行為を繰り返しながらも、真摯に人生を歩んでいる姿を受け入れることができる理由なのかも知れません。
※念の為、かつての時代に何の倫理観も存在していなかったという意味でありません。あくまで「戦争」ということを考える為の仮説です。

さて、当然話はここで終わりではありません。

「戦争」が人類の「進化」を押し上げるとして、いつまでもそのままのやり方を続けて行っていいのでしょうか?
大きく発展した科学力は、当然ながら戦争の破壊力を高めます。科学力が一定の高みにまで達した後は、そのまま「戦争」を続けていては反対に人類にとってのダメージリスク、滅亡へのリスクが高まってしまいます。

実際に、第一次世界大戦で「総力戦」に至った戦争被害の大きさを痛感した人類は、パリ不戦条約で侵略を(骨抜きとは言え、それでも一応は)禁止しようと試み、また第二次世界大戦・太平洋戦争以後には核兵器の存在が各国間の戦争抑止になっていることは明らかです。発展した科学力の下で行われた二度の大戦は、人類が持っていた「手段としての戦争」という常識を変化させて行きました。
※後に触れますが念の為、広島・長崎の原爆投下を肯定することは絶対にありません。

つまり、ここまでの仮説をまとめると、

人類は「戦争」と共に発展し、一定の科学力に達したところで「戦争」から離れる

というのが、人類の進化のストーリーなのだと私は思うのです。
戦争と共に発展し、やがて「脱皮」するようなイメージでしょうか。


断っておきますが、この戦争からの脱皮というのは一足飛びに「地球上から武器をなくして平和な世界が~」みたいな話をしようとしているのではありません。各国現実的な軍備を持ちながらも、弱肉強食・帝国主義時代の常識は捨てて行くということです。現実に第一次世界大戦当時と今とでは、人類の大部分の「戦争に対する感覚」が大きく変わっていることは間違いありません。核兵器の抑止力だけではなく(それと平行して)こうしたマインドの醸成が少しずつ人類から戦争を引き離して行っています。人類の「進化」はそのタームに入っているのです。そしてもちろん、アメリカのイラク戦争を防げなかった人類は、未だその途中です。

進化の列
ここでやっと、本題に入れます。


(一旦視点を戦後すぐの頃に移すとして)戦争からの「脱皮」が人類進化に必要だとしても、人はそれまでの自らの行いをいきなり変えることはできません。そのままの流れに任せていては、いつまで経っても誰も自らの「戦争」を否定することを始めることはないでしょう。これまでの仮説に照らして考えれば、これでは次の段階に入った「進化」のタームを進めることができません。

それではどうするか。誰も自らそれを始められないのであれば、一つの「決着」として「敗戦国」となった者からそれを行う義務を負う、というのは、ざっくばらんに言って「ま、しょうがないか」と私は思うのです。ですから私は、不公正ながらもまず日本が自らの近代戦争を「侵略というやってはいけない行為」だったと遡及して反省することに抵抗感がないのです。

まとめます。

欧米列強も侵略を行っていたにも関わらず、日本だけが反省しなければいけない理由は…

日本が敗戦国だから

です。しかしそれは決して「戦争に負けたから理不尽をすべて飲まなければいけない」というような消極的な理由ではなく、ただ

進化の列の先頭に立つ

というだけのことなのです。
これが、私の考える「自虐史観」です。


そして、もちろん日本が先頭打者の役割を果たし切った後には、後に続く欧米各国に打順は回って行きます。実際に近頃、アメリカの若年層で広島長崎への原爆投下を間違っていたとする割合が増えたという記事を目にしました。これは私は、戦後70年の日本がまず自らの戦争行為を否定することで先頭打者として人類の進化タームを前進させた結果ではないかと考えています。ですから、このところ増えてきたようなちゃぶ台返しのように日本の過去をやたらと正当化する言説に、私は違和感を持つのです。

当然のこと、この「戦争から離れる」タームでは先頭打者の働きが最重要です。その意味で、この大役を担いながらも敗戦後にまた経済大国としての存在感を持つことができた日本とドイツは、人類の進化にとって非常に大きな役割を果たしているのではないでしょうか。

戦争はダメ、だけじゃダメ
改めて今回の趣旨を繰り返しておきます。

以前の私のような、ただ「戦争というだけで何が何でもダメ」というスタンスでは、無限大に何もかもを責めることになってしまい、話の先がどんどん薄まって結局何の説得力も持たない言説になっていってしまうと思うのです。また、当然それでは欧米列強の過去の戦争犯罪と東京裁判とのダブルスタンダードを消化することもできません。

むしろ一度、人類の歴史は「戦争」と共に発展して来たということを認め、更にそこから脱皮することが「進化」だと考えることができれば、ある種の「線引き」で話を整理することが可能になるのではないかと思うのです。

最後に
最後に、これは書いておきたいと思うことが一つあります。
ここまで私は日本の近代戦争を否定するということを述べて来ましたが、当時の日本の人々の多大な苦労や犠牲について、簡単にこんなところで語ることは決してできないということです。

親類にも戦争体験者はおりますし、彼らの人生を簡単に否定するというようなことができるわけもありません。当時の彼らは、覚悟と気概を持ってあの時代を生き、戦争をくぐり抜けたのだと思います。

サッカー日本代表の本田圭佑はACミラン入団時に「日本人は決してあきらめず、強い精神力を持ち、そして優れた規律を持っている」と語りました。言い換えれば「日本人は皆一緒に最後まで戦い切る」というマインドを持っているように思います。そうしたマインドが戦争の空気・機運を高め、進まなくてもいいところまで戦線の歩みを進めることにつながったのかも知れません。しかし、本来そのマインド自体は悪いものではなく、日本人の強みでもあるはずです。(これはブラック労働の問題と似ているように思いますが)だからこそ、指導者達はその強みがマイナスになる前に気付いて欲しかったと強く思います。

祖父や祖母の世代の人生にいくら想いを馳せても尽きることはありません。しかし、それでも私は人類の進化として、まずは日本が過去の戦争を否定して見せるべきだと考えています。

「国家の戦争を否定すること」と「そこに生きた人々の人生を否定」することはイコールではないと思うのです。それを実現するのは、とても難しいことかも知れません。このように軍事・戦争について考えることは、常に最終的には矛盾へのチャレンジが求められます。私は常々、宗教観すら白黒を付けない曖昧文化をもつ日本こそ、この矛盾に立ち向かえる世界でも数少ないプレイヤーであると考えています。

その意味でも、やはり日本は進化の1番バッターに向いているのかも知れません。


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